- Q.英語を使った表現や演劇教育の授業をされているということですが、まずは英語を勉強するきっかけになったことを教えてください。
- 大学で参加した国連セミナーというプログラムが英語を学ぶ直接的なきっかけだと思います。
大学では、地域活性化やまちづくりといったことを学ぶ、交流文化学部に似ている学部にいて、実際に住んでいる地域を活性化させるプログラムや、世界の国々に目を向けた国際発展に関する講義などを履修していました。その中で、アメリカにある国連本部や関連機関を訪問するというプログラムに参加しました。正直英語は全く得意ではなかったものの、英語でミュージカルをやっていたこともあり、「かっこいい!」という漠然とした憧れがありました。広島出身で平和学習を通して知った国連の活動にも興味があったのと、滞在先のひとつであるニューヨークにはブロードウェイがあったので、行ってみたいという気持ちもありました。
- Q.セミナーに参加してその後の矢野先生にどんな影響がありましたか?
- UNICEFやUNDPなど、それまで大学の講義などで話を聞いていただけの機関を訪問し、実際に働いていらっしゃる方々と話をする機会を通して、月並みな言い方ですが、こんな風に世界を守っている人たちがいるんだと感じました。そしてブロードウェイで観たミュージカルの熱気や芸術の持つ力に圧倒されて、大好きなことやワクワクすることが詰まった忘れられないセミナーになりました。
このあと、このセミナーの縁で国連ボランティアのプログラムに参加して、世界を舞台に働くということに興味を持ちました。国連ボランティアの派遣先で、現地の伝統楽器「コムズ」を弾く矢野先生。外気温は-30℃以下になる日もあり、鼻の中まで凍るような経験をしたそうです。
- Q.派遣はキルギス共和国に行かれたとのことですが、行く前の印象はどうでしたか?
- プログラムの直前に派遣国が決まるので、キルギスと聞いたときは”どこ?”となりました。当時WEBで検索をしたら、ヒットしたのが外務省とJICAで派遣をされていた方のブログだけで、ほとんど謎に包まれていました。
3ヶ月以上の長期で海外に滞在するのがはじめてだったこともあり、シャンプーから湯たんぽ、トイレットペーパーまでスーツケースに詰めて行こうとしたのですが、案の定空港で重量制限で減らすことになって、その時に見送りに来てくれた方に、「キルギスにも人は住んでいるよ」と言われたのが印象に残っています。それほど未知の国でした。大多数の人が話す言葉はキルギス語で、ロシア語や英語も話す人が中にはいるという感じでした。
- Q.実際に行ってみた時に感じたことはありますか?
- キルギスは冬になるとー30℃くらいになる地域もあります。ですので帽子や手袋が、ファッションではなく防寒具として必須で、何も付けずに歩いていると、地元の方にキルギス語で”脳みそが凍って溶けちゃうからすぐかぶりなさい”と言われました。実際オーバーなことではなくて、子どもが学校の帰り道、凍えて亡くなったこともあるくらい厳しい自然環境でした。
また旧ソ連から独立をして、しっかりとした選挙制度が整うまでは政権を巡った内紛も珍しくありませんでした。優しくあたたかい国民性で、親日の国ということもあり、みなさん本当に優しく接してくださいました。でも現地で仲良くなった友達と話していて、「もし内戦とかがあったら、もちろん自分の国を守りに行く」と言っていて、自分達の手で、家族や友達、仲間を守らなくてはならないという気持ちが強いことを感じました。情勢が安定しない環境の中で、現地の方々の意識は私の感覚とは大きく違いました。今でもウクライナなどのニュースを見るたびにこの時のことを思い出します。アメリカの大学院の卒業式で、恩師との一枚。この先生は演劇教育の権威で、矢野先生が日本でプロジェクトをする時も来日してくださったそうです。
- Q.大学時代のセミナーやボランティアを通して、世界に興味を持たれたんですね。では、演劇はいつはじめたんですか?
- 演劇は中学生の時にはじめました。元々小学校で” ちいちゃんのかげおくり”という物語を短い劇にするという授業があって、担任の先生が声が綺麗だからと言ってくださり、主役をやることになりました。当時は、目立つことがあまり得意ではなくて、”変わっている”と言われるのが嫌いでした。決められた枠からはみ出すのはよくないことなんだと無意識に思っていて、なるべく「みんなと同じ」になろうとしていたんだと思います。そんな時に先生にほめられたのが単純に嬉しくて、演劇をやってみたくなりました。
そこから中学・高校・大学と演劇を続けて、国連ボランティアがIT関係だったこともあり、一度はITの会社に就職しました。でも、やっぱり演劇がやりたくて・・・。会社を辞めて演劇を勉強しにアメリカに行くことにしました。
- Q.演劇の勉強をするために渡米したんですね。仕事を辞めてアメリカに行くことに不安は無かったんですか?
- 全く不安はなかったです。行こうと思った時が行き時で、やろうと思った時に動きたい性格でした。ただその時は演劇は私にとって仕事ではなく「夢」でしたが、一度きりの人生”どうせならとことん情熱のあることをやろう!“と考えるようになり、演劇が学べる大学に行こうとアメリカの大学院進学を決めました。
大学院は演劇教育の学部に入学しました。役者になるための勉強やトレーニングをイメージしていたのですが、実際に行ってみると演劇と演劇教育は全く違うものでした。演劇教育と舞台演劇って言葉にすると違うけど、中々中身まで認知されていなくて、日本ではほとんど知られていない分野でした。
簡単にいうと、舞台演劇は発表を、演劇教育はプロセスを中心に据えているというイメージです。発表はあってもなくてもいいのですが、プロセスの中で自分たちが主体になって考えて動いて、その中で学んでいきます。主体的な学び方や生き方を学ぶといった感じでしょうか。(想像がつかないと思いますので、気になる人はぜひ授業を受けに来てください!)
恥ずかしがり屋で、自分に自信がなくて、なるべくみんなと同じになろう、目立たないでいようとした幼少期を思い出して、日本の教育にこそ演劇教育が必要だなと思いました。しかも、演劇教育の手法はUNICEFなどの国連機関でも活用されていたり、英語自体が学びの対象というよりも、英語をツールとして使いながら習得していけることにも魅力を感じました。
そんなこんなで、勘違いが良い出会いとなり、演劇を仕事にするという夢が「日本で演劇教育を発展させる!」という形として見えてきた瞬間でした。
- Q.演劇と演劇教育のギャップもあったと思いますが苦労したこととかはありましたか?
- 私の行った学部は当時、私以外の学生が全員英語が第一言語の学生でした。オリエンテーションの日にみんなが何を言っているのかさっぱり分からず、泣きながら大学から逃げ出しました。社会人の時の仕事でも英語を使っていたのである程度自信はあったんですが、ネイティブ同士の会話では全く聞き取れず、誰も目を会わせてくれないと感じ、このまま日本に帰ろうかとも思いました。そうしていると学外で仲良くしていたトルコ人の友人に、「なんのためにきたの?友達作りに来たんじゃなくて勉強しに来たんでしょ?」と言われ、恐る恐る大学へ戻りました。そして最初に受けた授業が演劇教育の実践でした。
この時は、お互いにペアになって顔や身体を動かすというアクティビティをしたのですが、その中で”目が合った””会話ができる”という安心感を感じて、”私ここに居ていいんだ”と感じ、演劇のテクニックを応用してプロセスの中で学ぶことを、はじめて身をもって体験しました。
当時の学部では、私だけが非ネイティブのアジア人というマイノリティだった環境で、その理由で受講を断られたことなどもありました。でもその度に先生たちには助けてもらって、とても大変でしたが生まれ変わってもまた行くと思いますし、身をもって内面の成長やプロセスの大切さを感じたからこそ、演劇教育が日本の教育に必要だという強い気持ちを持つことができました。
- Q.幼い頃に変わっていると思われることが嫌いでしたが、大学院ではマイノリティの環境に身を置いていたんですね。演劇教育を学んで帰国後は教員をされましたが、大事にしていることはありましたか?
- 大学院卒業後、演劇教育のワークショップとミュージカルのツアー公演をしながらニューイングランド地方をまわる劇団に1年間在籍していました。アメリカはダイバーシティを大事にしているので演劇の中でもマイノリティの存在は重要でした。私はアメリカで隠しようのないマイノリティでいたからこそ、違うことが当たり前ということを感覚で理解することができました。元々違うと言われるのが怖かったですが、むしろ今では変わっていると言われることの方が嬉しいと感じるようになりました。
コミュニケーションも英語も苦手だった私が、まさかアメリカでミュージカル公演をする日が来るとは想像もしていませんでした。帰国後教員をする中で、学生一人一人がそれぞれ違った方法で自分を表現したり、個性を発見したり、自分の内面と向き合いながら学んでいく姿を見ると、嬉しくなります。
異文化交流も演劇も、違う考えや感覚をもつ人がいればいるほど面白いし、そもそも違わない人がいるわけないので、みなさんにはそれを心置きなく表現できる方法を、演劇教育を通して身につけてほしいですし、授業ではそのような環境をつくり続けていきたいと思います。